ぐれた

アクセスカウンタ

zoom RSS 「驕らぬ心」 「謙虚な司祭」

<<   作成日時 : 2007/05/28 01:33   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 1

本棚を整理していて久しぶりに手にした「石の幻影」(大久保憲子訳)。河出書房新社のディーノ・ブッツァーティの短編集だが、収録は厳選の6編。目次に「謙虚な司祭」のタイトルが。

ブッツァーティは怖い。彼の不条理は条理ある不条理だから。彼の描く不安は自分の日常に実際存在するものだから。そして、そのリアルさゆえに目をそらすことができない。
“突如足元にぱっくりと亀裂が生じ”というサスペンスとは異なる、気がついたら天井にできていた小さな黒いしみが次第に広がってくようにじわじわと迫ってくるブッツァーティの恐怖は、神経に“くる”ものだ。

光文社の古典新訳文庫の「神を見た犬」(関口英子訳)を読んでいても、排除し切れないことはわかっているから、生き続けるためにはせめて遭遇の頻度や中身の密度を低くしておきたい不安が見事に取り揃えられ、自分の中の“平衡”が揺れに揺れるていること、そしてそれを鎮めるためにもう一人の自分が必死になってなだめあやしていることに気づき、震撼。
その一つの極点が「七階」である。「七階」はブッツァーティの世界の白眉。

そんな中、その恐怖がうそのように胸が熱くなるのが「驕らぬ心」だ。
自分は無宗教、そして話のオチは早々に見当がつく。なのになぜかこみ上げてくるものがある、何度読んでも。なぜだろう。ブッツァーティ流のシニカルさを含んだ現実性と、その対極とも言える自然体の畏れを知る心の双方が描かれ、最終的には後者が前者を包み込むからだろうか。
酸いも甘いも了解した老神父もやはり「求める心」−それは成人よりも乳幼児の体温が高めであるかのごとく温かい−を持っており、ラスト、同情と嘆息で受けとめていたものが真の謙虚、純粋であることを知り、哀れと忍耐を覚えながらも赦したことに自分が赦される、報われる。皮肉を超えて、“愚直な”司祭の敬虔と、彼に赦しを与え続けたある意味世俗的な人情に感動してしまう。
だから、どんなに平衡が脅かされようともブッツァーティはやめられない。

その「驕らぬ心」が「石の幻影」では「謙虚な司祭」として収録。こちらも改めて読んでみたが、やはり涙が出てきてしまった、冗談でなく。好みとしては、チェレスティーノ神父は関口氏訳、“謙虚な司祭”は大久保氏訳か。いずれにしても、「L’umilt`a」はブッツァーティのもう一つの頂点に位置する名作だ。

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(1件)

内 容 ニックネーム/日時
本当、涙が止まらないですよねこのお話は。嫁にそういって読ませたらぜんぜんぴんとこない様子。確かに、オチは見えるしワンアイデアの話といわれればそうなのですが、それになぜ自分がここまで惹かれるのかが謎です。
みしぇる
2016/02/27 23:42

コメントする help

ニックネーム
URL(任意)
本 文
「驕らぬ心」 「謙虚な司祭」 ぐれた/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる