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zoom RSS 福永武彦「世界の終り」

<<   作成日時 : 2006/12/29 21:08   >>

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ことしもあとわずか。変化したのがそのことしと明らか断言できるのが「世界の終り」に対する自分のスタンスだ。

些細といえば余りに些細だけれども、作品上の設定と自分の実際の状況という動かしようのない客観的な一致と、主人公の性格のある部分やクライマックスでの彼女の“わななき”の一部という極めて感覚的な部分でのぞっとするような相似に動揺をもって受け止めずにはいられなかった「秋の嘆き」。それでも、いつしか一致点よりも相違点をわきまえるようになり、読むたびの自己憐憫・自己哀惜は過去のものに。

考えみると、「世界の終り」のヒロインとの共通点は何もないかも。ただただ、彼女のモノローグ、彼女が見ること、感じることの余りの美しさと淋しさに身動きがとれなくなったものだ。そして、どうして一女性の心象風景を男性たる福永武彦がこれほど美しく、病んで描けるのか、打たれるばかりだった。その感慨は今も変わらない。
でも、変わらないものの方が少ない、貴重だ。形のあるなしにかかわらず変わるのが世の常。変わり方はその都度予想できないものだけれど、変化する方が自然。まして、経年変化といったらいわんやをやだろう。

初めて読んだときから、多美のモノローグはそのまま自分のものとして読めた。自分ではその能力がなかった漠とした寂寥の言語化には、感動を通り越して慰めすら得られた。だから、多美の夫による自分の母と妻と妻の家族についての語りも、人ごとというか、“あなた(たち)にはそう見えるのね”というものだった。それ以上でもそれ以下でもない。

でも、以前のように読めないことにこの間気づいた。
“世界の終り”を多美の目となって共に見ておののいていたのが、今は“多美が見ている光景”を見ている、にすぎない。自分の中の言語化できない感覚を多美が顕現化してくれていたように思えていたのに、いまや私は彼女を見ているだけ。そのモノローグの一字一句が静かに迫ってくるのは前と何ら変わらないのだけれど、今は彼女が階段を下りるのを、診察室のドアを廻すのを私は見ている……のみ。前は一緒に阻害に厚くくるまれながらのろのろ歩き、怖さや恐ろしさを感じ、そして診察室にはいろうとしていたのに。私は彼女のギャラリーでしかなくなった。
裏を返せば、自分にはギャラリーすらいないことが悲しいんだろう、淋しいんだろう、今は。書き手を、見手を持つ多美は、持たない者よりもまし、幸せと羨ましいのだろう。

この作品でそういうふうに感じることになるなんて、思いもよらなかった。形のあるものが変わるのはもちろん、形のないものも変わる、変わらないものもある一方で。全く思ってもみなかった変化とどんなふうにつき合えばいいか、そしてまたこの先どんな変化が起こるのか、楽しむようにしましょう。

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