「主任警部モース」でフレディ・ジョーンズを見る

18話「誰がハリー・フィールドを殺したのか?」にフレディ・ジョーンズ登場。
誰がローラ・パーマーを殺したのか-今でも心は60’sの中年画家編だ。

“死者をたどることで自分自身と向き合う”、この幾多の作品で繰り返されているモチーフに独特の重みを持つ「…モース」。ハリー・フィールドというメリー・ウィドウならぬ陽気な死者と意気投合し、一方、部下ルイスの昇進のための推薦を辞さない、つまりルイスを手放すことを受け入れるこの回はなおさらだ。
昇進試験のためルイスは警察・刑事証拠法を勉強しており、字幕にその略称「PACE」の文字が数回出てくるが、「PACE」はイタリア語で「平和」を意味する。まるでルイスはモースを離れて平和、平穏を得ようとしているようで、モースの孤独をより色濃く感じる。

そして、さらに味わいを深めているのがフレディ・ジョーンズ。

良くも悪くも人を食った表情が持ち味の彼。ジェレミー・ブレットのホームズものでも、ビル・超人ハルク・ビクスビー出演のTVドラマ「殺人は容易だ」でも、なんとも憎めない地元警官を愛敬たっぷりに演じていた。
だからこそ、「ジャガーノート」での“自分だけの全うな理由は確固としてあるけれども、いけないことをしていることはわかっている”という怯えた目が印象的。卑屈と哀感でもはや何ものをも映さないがごとき目の色なのに、罪の意識に泳ぐのが哀しい。卑劣と良心の同居はやりきれない。
その愛敬と哀感が同等に混ぜ合わさったここでのF・ジョーンズは、一見の価値ありだ。息子とその嫁とは、互いに愛し愛される関係のよき父親。その息子を失った悲しみの向こうに自負と自嘲を炸裂させるクライマックスの彼は圧巻の一言。

刑事ものとしてのカタルシスは得られないのだが、ハリーとハリーをめぐる人々の一筋縄でいかないありよう、さまざま登場する絵画(たとえパスティーシュでも)が醸す空気、そしてF・ジョーンズのすばらしさ、「誰がハリー・フィールドを殺したのか?」は名作だ。

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