横溝正史「靨」

新スタートレックのオリジナル小説を読んでそれなりに楽しめたことに自分でびっくりしたことがある。「オリジナルとはいえノベライズみたいなものなんだから、どーせ…」と全く期待してなかったことを差っ引いても、やっぱおもしろいと思えた。
それは、TVでお馴染みの面々の内面がキャラごとに結構巧みに描かれていたからだと思う。文字として示される心の声を読むのはやっぱ映像を読むのとは別の楽しみがあるなぁと、文字媒体ならではの緻密さに改めて思いを致したもんだ。

クリスティはミステリの女王であると同時に優れた人間ドラマの描き手。深くシニカルな眼差しと独特の“地に足がついた”感覚で描かれる恋愛心理には時として圧倒される。

横溝正史も、ある意味、恋愛小説の妙手で、叙情的で運命的なドラマを紡ぎ出す。
映像ではこの味わいは醸し出せないだろうという文字ならではの深みとすばらしい恋愛小説ということで忘れられないのが「靨」(えくぼ)だ。

山奥の宿、そこに現れる男とそこに暮らす女、まさしく横溝ワールド。気づいた特徴や癖の些細さは自分の心を相手がどれほど占めているかのバロメーターだが、ヒロインだけが知っていた男の癖のあまりのささやかさには思わず胸が詰まる。
白眉はラスト。明らかになる“愛の告白”の真相には息をのまずにはいられない。映像媒体ではここまで盛り上がらないだろうという、感動以外のなにものでもない最後の2行へと哀しく優しく収れんしていく描写は本当に出会えてよかったと思えるものだ。
事件そのものについてはともかく、物語の根源であり結晶である“愛の告白”の仕掛けとしての、そして文章としての巧みさ、名作です。

「靨」は「刺青された男」の中の一編。表題作が傑作であることはもちろん、一緒に収録されている「アトリエの殺人」も作品の空気とラスト1行の見事さが印象深く、短編集「刺青された男」はかなり気に入っている一冊だ。

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