マッテオ・カラーティ

「輝ける青春」を未見の方は絶対に読まないでください!

ことしは全然劇場に足を運ばなかった。そんな中で特筆すべき作品は「輝ける青春」だ。6時間という大作ということはどうしたって外せない要素であることには間違いないが、それより何より、その長さを感じさせない内容の濃さは素直に素晴らしいといえる。
が、私にとってはこの作品云々というよりも、登場人物の一人のマッテオ・カラーティというキャラクターに遭遇したことがかなり大きい。マッテオ、冒頭の若いころの長髪の姿はまるでアンドレア・ピルロなんだ、なぁんだか間の抜けたような感じで。兵役につくために髪を短くしたら、あららぜーんぜん別人。ちょいとシュワルツェネッガー入ってるかなという印象を持ちながら、そのうち“こりゃあ「レッド・オクトーバーを追え」のスコット・グレンじゃん”なーんて楽しんでいるうちはよかった。

「仮面ライダー響鬼」で、タイトルロール・ヒビキの幼なじみは彼に関して「人は変われるんだよねぇ」と言う。もちろんそれはいい意味での話で。人、というか物事は、変われるし、変わりたくなくとも変わってしまうし、また変わらない(たとえ変わりたくても)。そのどれも事実なんだ。変れるのがいいとか、変らないのが悪いという問題じゃない。どういうパターンもありということなんだと思う。そして、変わりたいのに変われないのと、意図して変らないというのは、時として哀しい裏表であることなんじゃないか。

マッテオというキャラに出会い、“生まれ持った性質は変りようがないのだ”ということを今さらながら強く思うに至った次第だ。彼だって、両親を、兄弟を十分愛しているし、家族から愛されていることはよくわかっている。そして彼を想っている女性の存在もわかっている。でも、彼は生と折り合いをつけることがどうしてもできない。それは、彼が人間として弱いとか身勝手だとか思慮が浅いとかということとは全く無関係であることは作品を見ていれば明らかだ。ただただ彼は生きることと折り合いがつけられないんだ、どんなに年齢、経験を重ねても。それは仕方のないことだ。幾つになったって、どうしたって、生きていることに違和感を感じる存在はあるものなのだ。
「輝ける…」はイタリアの世情にのっとってカラーティ家の人々を描いているから、“赤い旅団”等のテロの時代に至って警察組織に身を置くマッテオのことだから、そういう絡みで死を迎えるのだとばかり思っていたら、私が見た映画で最も寂しく、唐突に、かつ思いもよらぬ体勢で自死を遂げるマッテオ。そのシークエンスにおいて窓枠が十字架のようで何だか意味深だなぁとは思っていたのだが、彼の自ら死を選択するありようは、人は変わらないのだと、持って生まれた性質は最期までおのれのものなのだ(決して悪い意味でなく)ということをかなりの痛みをもって私は感じた。家族を愛しても、また情熱をぶつけられる相手に巡り会っても、それでも自身の前にある道は自死のみ、それもまた真実なのだ。まして、かつて抱いていた情熱をなくしたものにとってはより選んでおかしくない、しかるべき行く末なんじゃないか。

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