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zoom RSS 連夜のポワロA 「五匹の子豚」

<<   作成日時 : 2006/01/14 01:11   >>

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「杉の柩」は、映像化によりそれがいかに優れた文学作品であるか、クリスティが、推理小説という枠組みを超越し切った、人間の心理及びその原因と結果たる事象を描くにおいて“唯一無二”と形容し得るほど卓越した作家であることを証明した番組であるといえる。一方、「五匹の子豚」は、映像化のスタッフのすばらしい才能により、原作の持つ“ただならぬ(ほど込み入った)愛の物語”をそれはそれは哀しい美しさでもって文字によるイメージを増幅してくれている。

たしか最初にこの番組を見たときの強烈極まりない印象は、エルサ役の女優の余りにも見事な顔の造形に、世の中にはここまで“すんばらしい”容貌の女性がいるんだ、ははーっっという、「あたし、あなたの前ではひれふしてしまいますわ」感、そして、「やっぱ松橋登は声にしろ姿にしろ最高だよな」感(ホームズものにおいて彼は宝石を飲ませたガチョウを探す実に滑稽な役回りを担当したことがある。恐らくあえて彼にさせたのであろう。が、やはり彼は声よし姿よしの稀有な存在)だ。しかし、もう少し年をとって改めて見てみると、それぞれの起用した俳優陣の(これはもう天性のものとしかいえないのだが)容姿、そして演技を超えたその人そのもののたたずまいが、いかにクリスティの創作した世界に深みをもたらしているか、かつ、制作側の演出が何ともすばらしく人の感情に入り込んでくるか、それらのことに大きな感銘を受ける。大げさな物言いでなく。
今回初めて気づいたのだが、この作品中、客観的及び主観的“赤信号”のシーンで、その他のポワロシリーズではちょっと聞いたことがない効果音が使われる。そう、旋律ともいえない、私は弦楽器についてはまるで無知なのだが、ベースでないなら合成音なのか、蜂のうなりをもっともっと深くしたみたいな、地の底から響いてくるような不吉で不安をかき立てるBGMが使用される。それは、自分の記憶の限りにおいてはほかの同シリーズの作品では耳にしたことがない、忌まわしさにおいて右に出るモチーフはないんじゃないかと思えるぐらいのものだ。今後再び見る機会があったら個人的にぜひ気をつけたいと思う。

アミアスのいかにものやさ男ぶりにキャロリンの意志的な美しさ。そして対照的なメレディス兄弟にファム・ファタールたるエルサ。TVプログラムとしての演出と俳優、そして声優の存在は、原作にさらに膨らみを持たせる。しつこいようだが、原作では余り感じなかったアミアスの魅力、つまりそれは女性と男性の両方にとってもという意味(らしいの)だが、そこについては、かつてのカイル・松橋登・マクラクランが十二分に魅せてくれている。そして、キャロリンもエルサもフィリップもこれでもかというぐらいに魅力的だ、いろんな意味で。

「杉の柩」とのもう一つの大きな違いは、ある意味での主人公が既に殺人犯として絞首刑に処され死んでいることだ。だから、どんなにポワロが活躍して彼女の汚名を晴らしたとしても、彼女はもはやこの世の人ではないという哀しみがついて回る。それでもこの作品が読み手の心を打つのは、キャロリンが、その命と引きかえにしても愛する対象を持っていたことだ。彼女は愛する対象をかばっていた、自らの死と引きかえにしても構わないほどに。そして、浮気な夫ではあるが最後は彼が誰を愛しているか十分に互いに承知し、そのことによって“浮気の相手”はどれほど傷つくか思いやれる女性であったということともに、彼女は既に彼岸の住人たるアミアスと共になれるという意味で自らの死を拒まないばかりか喜んで受け入れる。既に冷たくなっている夫を前に、庇うべき相手を瞬時に想起し慌てるキャロリン。その思いは死の直前まで変わらなかったばかりか、彼女に贖罪という意味で安らぎさえもたらす。それは実は誤っていたとポワロにより明らかにされても、その思いは変わらないのだ。
唯一不満とえば、成長したカーラ役がいささか浮いているような気がする。もっとアミアスかキャロリンに似ている俳優を使ってくれてもいいんじゃないかと。しかしその思いは、制作側の意図するとおりに、カーラがバルコニーの扉を開くラストシーンで塵のように消え失せる。真相を知ったカーラの目に映るのは、幼い自分を招き入れる家庭教師と叔母の笑顔と仲睦まじい両親だ。カーラを間にキャロリンとアミアスはキスをする。それは、原作だけではたどり着けない情感あふれる光景だ。それがすべての慰めとなる。

偶然にも「杉の柩」と「五匹の子豚」を連続して見ることになった。クリスティが、人の心理、殊にさまざまな愛のありように繊細かつ大胆な洞察力を備えたすばらしい小説家であることは言うまでもないこと。
そして、この2作品を見て私は木々高太郎を思い出したのだ。「探偵小説芸術論」を提唱した彼。彼が望んだ境地は実はこのような作品だったのではなかったのかと。「杉の…」「五匹…」、いずれも見事な探偵ものであると同時に端倪すべき叙情性を持った文学作品だ。人が人を想う情緒と哀惜が読み進むにつれてあふれてくる。これを書く前にクリスティと木々の時系列的な相関をチェックしておくべきだったが、すっかり失念してました。ただ、木々がクリスティの著作を読んだら彼女の才能にそれはそれは羨ましがったんじゃないだろうかなんて、想像せずにはいられない。それぐらい「杉の柩」と「五匹の子豚」は、人間の心理の描写において読み手の胸に深く深く染み入ってくる名作だ。芸術だ。クリスティの原作、読むべし。そしてD・スーシェのTV化、見るべし。できたら木々の作品にも触れるべし。とっかかりは創元推理文庫の木々高太郎集でいいんだけど、「青色鞏膜」はかなり好きな作品。より多くの人に読んでほしい。
愛する存在を意識したときの陶酔と煩悶は古今東西永遠のテーマだが、ここに挙げた3作品だけでもかなり深くて幅広い愛のありように触れられるというものだ。

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アガサ・クリスティー『五匹の子豚』
ポアロのシリーズの中でも神秘的な雰囲気をもつ作品(だと思う)。ストーリーは ...続きを見る
Coffee, Cigarettes &...
2007/04/13 13:01

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