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zoom RSS ヒッチコックに畏れるものはないのか

<<   作成日時 : 2005/04/13 20:05   >>

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A・ヒッチコックと楳図かずお、両者とも私にとってかけがえのない表現者。スカパーのミニ番組で楳図かずおが「恐怖」と「おもしろさ」について話していた。おもしろさと怖さ、つまり怖いもの見たさというのは相通ずるものなのだろうと。そしてヒッチコックは「恐怖」と「愛」を並べてみせたわけだ。もちろん男女間の愛に限ってはいない。「見知らぬ乗客」のR・ウォーカーのF・グレンジャーへの、「レベッカ」のとダンバース夫人のレベッカへのような愛も示してくれるヒッチコックにはまさに脱帽だ。

楳図かずおは、目に見えないもの、この世ならぬもの、何をもってしても説明できないものの存在を信じているというか、信じる・信じないの前に既に畏敬の念を抱いている。(畏れかつ敬うことを意味する「畏敬」、見事な言葉だな)そんな恐怖は、「どうしてかな」という感覚から「おもしろさ」へつながっていくわけだ。そして彼は幸福なことに、その「おもしろさ」を森羅万象に対してのあくなき好奇心、興味、“わくわく感”へ結びつけている。彼がいつまでも実に生き生きとしたあり方を保っている訳はそれにほかならない。自分の親と同年代のそんな彼の姿を見てこっちが生気を与えられるという理由はそこだ。彼は幾つになろうとも好奇心と畏れとを抱くビビッドな存在だ。

楳図かずおとヒッチコックは似て非なる存在か。“怖さ”というカテゴリには一見一緒にくくれそうだが、まるで異なる存在だ。そうだなぁ、考えてみるとヒッチコックの作品から畏れというものを感ずることはまずない。恐怖を描きまくりながら、この巨匠はそれらはすべてゆえあるものととらえている。忘れたい、消してしまいたいとして意識の下に閉じ込めている事象も(当事者はそれによっていいようもなく苦しめられている)明るみにすることに彼は快感を感じているのか。ダリを用いてまで。ノーマン・ベイツの異常さもマーニーの多重コンプレックスも、説明し得るものだ、理由あるものだ。何より彼の現実主義はTVシリーズ「ヒッチコック劇場」でのスポンサーへの態度で明らか。彼は既にスポンサーの重要性を十分に認識していたのだから。「鳥」では、確かに鳥の行動はわけもなく、そしてその後の無事も定かではないラストという点では“説明できない恐怖”を描いているとはいえる。が、鳥の行動を、冒頭わずかなシークエンスで明確に表現されるヒロインの傲慢、自己中心的と形容し得る性格への警告、懲戒ととらえると、納得いくものになる。「ファミリー・プロット」のラストはご愛嬌の一言。彼の目には、恐怖も愛情も、すべての感情及び事象には原因があり説明可能なものと映っていたのだろうか。
でも、誰が何といおうとおもしろいからな。ある意味彼ほどのエンターテイナーはいるか?ある恐怖、サスペンスの来し方行く末、つまり原因と結末、そしてもちろんメーンのその過程、それらをこれでもかというぐらいに、ハラハラドキドキ巧みに、そして冷徹かつ甘美に描いてみせてくれる職人はもはや現れないのでは。
一口に恐怖といっても、そのあり方、とらえ方は人によってさまざまということだ。私にとっては、作品はもちろん作者そのものでも、何らかの刺激、感慨を感じることができる存在は非常に大切である。

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