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zoom RSS プロレスから教わったこと〜「桎梏」

<<   作成日時 : 2005/03/08 21:26   >>

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「桎梏」という言葉は週刊プロレスで初めて知った。「桎」は足かせ、「梏」は手かせを意味するという。「梏桎(こくしつ)」という言葉も同義で存在する。自由が(手かせ足かせにより)奪われるという意味だ。
それがいかなる性質のものであれ人の集まりの領袖となったとき、自身の自己表現にすら手かせ足かせがかかってくるということに私は俯かざるを得なかった。(時の政権党の「領袖」の方がよっぽどお気楽だ。頂点にある者としての自覚もなければ、領袖の下に集まる者への指導、気配りのかけらもない。なくていいとお考えらしい)“対立”する集団と相対立するとき、自分がその最前線に立つ。そして、最も強い攻撃にさらされ、かつ身内からの突き上げを受ける。今の政治の世界ではそういうことは昔話のようだが。そのとき、気がつくと手には手かせ、足には足かせがはめられているのだ。

集団の経営運営という面においてだけでも、専門外のもどかしさはつきまとっていただろう。加えて、マット上での最も自分らしい自己表現、というか、場合によっては良くも悪くも最も自分自身が露呈してしまう「闘い方」に対してすらも何のかんの言われるのだから。いや、一個の選手として、自分の思うような戦いができなかったとか、自分としては全力を尽くしたと断言できるが観客には受け入れられなかったといったたぐいの歯がゆさ、力の至らなさについては、一選手として、個人として、いかようにでも刻苦精励、奮起努力すればいいのだ、納得いくまで。プロ、それでお金をと取るという道を選んだときからの定めとして。
でも、もはや個人ではない、何かしらの“集まり”のトップとしてはそうはいかない(少なくとも今より)。そして、そんなふうな誰にも持ち得ないカリスマ性の持ち主なんだ。もはや“彼”の「闘い方」は、一つの競技の戦い方だけではない、その集団のあり方の象徴となってしまっていたのだから。
……桎梏という言葉について書いているつもりが、やっぱり前田日明絡みになった。
素人の私にはわからんことだが、リングスを立ち上げて、現役引退をして、その後赤いブレザーを着ながらもどの選手よりも求められながら、(その間さまざま経営面で苦い思いをしながら)、第一線から姿を消しながら、「桎梏」という概念から解放されたのだろうか、以前よりは?ここまできて、自分のやりたいように出来ないもどかしさ、求めるものとは異なった方向に自己の意志と反して進んでしまう違和感、焦燥感、そして危機感に襲われることはないというのか?はたまた、大望を抱いたる者、幾つになっても諦めは禁物ということだろうか。教わることがまた出てきそうだ。

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